1995年12月 GRACIAS結成 → 1996年5月現メンバーで活動開始
GRACIASをはじめた頃はWINDOWS98も当然この世の中にはなく(笑)、トレンディードラマ、CMソングとタイアップ→ミリオンヒットというイメージ先行型アーティストが狂い咲き、今以上のカラオケJPOP全盛で、オレ自身もそんな音楽事務所の片隅に籍を置いていた。やっとデビュー出来たバンドBLIZARDが活動停止、金沢で音楽番組「BEAT
GOES ON」のVJをしていた関係でいろいろな知り合いが出来つつあったね。毎月のようにセッションに誘われて、そこでエンリケに知り合うわけだ。セッションから自然にバンドが出来てそのバンドをPEARL
HORBORと命名していろいろなところでLIVEをしていたんだけど、Ds.の尾崎が二井原さんのところのDED CHAPLINをやり始めて、メンバーが掛け持ちだらけになってしまって、オレ自身はバンドというものへの情熱をなくし、PEARL
HORBORの終焉を実感した。そのままなんとなく過ごしていた1995年。しかし、1996年が来る前にどうしてもLIVEをやらなけれならない!!!と心に一種の使命のような思いが湧き上がってきて、12月も10日近くになった頃にエンリケに相談をして12/27の下北沢2・5・1をブッキングしてもらったわけだ。そこで始めたバンドが「GRACIAS」
GRACIASとはラテン語で「ありがとう」を意味する。
このバンドのベーシストのエンリケが母国コロンビアに行った時に当時知っていたラテン語がこの「gracias」という言葉くらいしかなかったんだけど、『この「gracias」という言葉でなんとなくコロンビアの人達との気持ちがつながった気がした』という話をしてくれたことがあった。オレの中ではその話が鮮烈に記憶されていたわけだ。
「GRACIAS
→ ありがとう 」が万国共通ならオレの思い続けていたことは「MUSIC = 万国共通 」なんだから、これしかない!!
バンド名は「GRACIAS」
LIVEをやる場所が決まって、バンド名が決まって、ここでメンバー・・・。
B.はエンリケ。
次にエンリケといろいろセッションをしている時に四谷のフォーバレーのセッションでVAN HALENの「HOT FOR TEACHER」をやったことがあった。最高だった!最高だった!最高だった!その時のDs.に電話をした。当時は今みたいに携帯電話などなく自宅に直接だよ。KUDO→、快くOKをしてくれた。ギターはPEARL
HORBORの飯島と佐藤だった。12/27のLIVEが終わって、「楽しいからまたやろう!」ということになった。そう、LIVE前には今後のことなんてまったく考えていなかった。(バンド名はずっと自分の中であたためてきたものに決めたのにね)
その後LIVEをやって感じたこと・・・ギタリストだ!「ギタリストにさらなるインパクトがほしい!!」それを感じて頭に浮かんだのが、これもエンリケとのセッションなんだけど、エンリケの母校水産大学の学園祭、野外のステージでオレが池?に飛び込んだ時にギターを弾いていたG.に電話をした。BURNYだ!飲みの誘いの電話は良くしてたんだけどね・・・当時BURNYの留守電によくメッセージ残したなぁ〜。
GRACIASの4人が決まった!
都内、東名阪を中心にライヴ活動を展開。「HARD69SHOP」というイベントを主催。“HARD
ROCK”というカテゴリーから想像できないほどのいろいろなジャンルのROCKを集めて共演を重ねてきました。
KUDO→のEARTHSHAKERが活動を再開し、エンリケは浜崎あゆみ、BURNYは吉井和哉・・・メンバーのスケジュールはパンパンですが、2007年は恒例のGRACIAS夏のツアーは「名古屋→名古屋→京都」で敢行いたしました。
そして、2008年は久々の東京LIVEと、「岡崎→京都→奈良→飯田→名古屋」の脅威の5日間連続LIVE。
もちろん毎日アドリブ、メドレー三昧!
その後パッタリ消息不明のようになっていたグラさん。
停止も突然なら再始動も突然!
2016年、今思うと結成20周年のその年に再始動(笑)
2016年、2017年、2018年と意外に?コンスタントにLIVE活動中!